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砂漠だった大地が、豊かな森に。30年以上にわたる植林活動で、村の環境や暮らし、人々の意識をも変えた「インドの森プロジェクト」とは?【後編】

インドの森プロジェクト

前編はこちら

自立できる村の仕組みをつくるために

はじめの4~5年は集中して植林に取り組み、緑化面積を広げていきました。しかし、寄付での支援というものは永久に持続できるものではありません。支援に依存する体制をつくってしまっては、その村のためになりませんから、私たちは、いつか支援が終わるときのことを考えながら行動しなければなりません。そこで1996年頃からは、たとえ資金援助がなくなくっても植林を続けられる仕組みを構築していこうと現地の方と協議を進めていきました。例えば、それまでは、育てた苗木を村民に無償で提供していたのですが、今後は「タゴール協会」が販売し、その売上金を次の植林のために貯めておくのはどうかと提案しました。しかし、「タゴール協会」は、「商売をしたくない」と消極的。対話を繰り返すうちに、持続するために何が必要なのか理解が深まっていったようです。また、その頃には、マンゴーやカシューナッツの実を収穫できるようになり、販売することで少しずつ村の収入が増えていたことから、村と「タゴール協会」とで折半して果樹の苗を買うなど、経済が回る仕組みが少しずつできていきました。

2018年3月のレポートより。村の住民画自らの手で森の管理を行う。
2018年3月のレポートより。村の住民画自らの手で森の管理を行う。

それぞれのエリアに適した植林を

植林する苗の種類は、それぞれの地域の土壌や状況にあわせて選んでいました。アカシア系の木やカシューナッツは生育が早く、土壌が荒くても育つのでたくさん植えました。オディッシャ州であれば、気候に適しているカシューナッツをメインにしたり、西ベンガル州のガンジス河付近の村であれば土壌の侵食を防ぐためにマングローブをたくさん植えたり。また、木が育ち、森が蘇えると周辺の自然環境が変わってきます。それまでは、女性たちが遠くまで歩いて薪を取りに行っていましたが、近くの森に落ちている葉っぱで火を起こせるようになったり、土壌が変化して耕作できるようになったり。緑化を進めることが、結果的に農地化することになり、現地の生活の向上へとつながっていきました。

2016年のレポートより。カシューナッツの木に花が咲き実がなっているようす。
2016年のレポートより。カシューナッツの木に花が咲き実がなっているようす。

ずっと続く、フェリシモのお客さまからの応援

プロジェクトがスタートしてから6〜7年経過する頃から社会情勢の変化もあり、「国際ボランティア貯金」からの助成だけに頼るのは難しくなってきました。そこで、現在の「フェリシモメリー」の前身で、お買い物をしてポイントを貯めたり使ったりする「フェリシモドル」の取り組みの一環として、1997年に当時の担当者がお客さまのポイントで「インドの森プロジェクト」に寄付をしていただく「植林コース」を設立しました。おかげさまで、かつてないほどの支援をいただき、2000年頃まで続きました。また、「フェリシモの森基金」はその頃は、国内の植林を活動に比重をおいていましたが、「インドの森プロジェクト」の取り組みを評価し、1996年に一度拠出をし、2004年以降は継続的な支援を行っています。

木々とともに、村の人たちの意識も育まれた

活動を続けてきて一番印象深いことは、森の成長とともに現地の人々の意識が変化していったことです。2010年くらいのことだったと思います。インドを訪れた際に、車で移動していると「あそこにお寺が見えるでしょう」とコーディネーターの方が指差す方向を見てみると、とても立派な寺院が立っていました。そして「村の人たちが建てたんですよ!」と教えてくれました。カシューナッツを収穫して得た村の収入を村民が少しずつ出し合って寺院を建てたと言うのです。びっくりしましたし、とてもうれしかった。寺院は、村のシンボルでもあり、コミュニティの基地であり、みんなの拠り所になる場所です。少しずつ収入が増えて生活も向上して、村の人々が自分たちの力で寺院を建てるまでになったことがうれしかったです。

男性たちも変化していきました。2010年に矢崎会長と久しぶりに一緒に現地を訪れたときのことです。「1992年にはじめてインドを訪れたときは、仕事がなく寝転がっている男性が多かったけれど、今回は遊んでいる人がほとんどいなかった」と、感動しておられました。私は毎年行っていたので気がつかなかったのですが、果樹や薬用の木のおかげで仕事が増えて、いつの間にか働くことがあたりまえになっていたのです。また、ジャルバクダ村に象の群れが帰ってきたときも、矢崎会長とともによろこびました。象の恩返しが実現したのです。けれど、象が危害を加えることもあるので、地元の人たちの間では、通り道に食料を置いたりして、なんとか共存する方法を模索しているようです。

(左)森にゾウが戻ってきたときは、村の人たちも感動したそうです。(右)みなさまに商品をお届けする際に使用する箱のデザインは、感謝の思いをこめてジャルバクダ村の森をモチーフにデザインしています。
(左)森にゾウが戻ってきたときは、村の人たちも感動したそうです。(右)みなさまに商品をお届けする際に使用する箱のデザインは、感謝の思いをこめてジャルバクダ村の森をモチーフにデザインしています。

インドの村の人たちに寄り添う「タゴール協会」

ところで、「タゴール協会」は、インドの農村開発や地域開発を手がけている団体で、開発が遅れていたり貧困に悩んだりする村々に入って、農業・衛生指導、コミュニティづくりなどあらゆる面からサポートを手がけていました。植林もそのサポートの一環であって、「インドの森プロジェクト」はタゴール協会との協業が欠かせないものでした。プロジェクトが長きにわたり活動できているのは「タゴール協会」あってこそです。また、村の人たちが、木が育っていくのとともに元気になるように、「タゴール協会」のスタッフたちの変化も著しいものでした。スタッフのなかには、大学で社会学を学び頭脳明晰ではあるけれどフィールドワークには苦労しているという青年もいました。オディッシャ州で出会ったあるスタッフは、初めはなんだか不安そうでぎこちなかったけれども、会うたびに力強くなっていて、数年後に会うと自信に溢れていました。あの変化にはおどろきました。木々が育つことと、地域の人たちが元気になっていくことで、成功体験を得られたことが彼の成長の鍵だったのだと思います。そうやって、地域の人たちとともに活動を続けることで、村の人たちの暮らしを向上させるいい循環が生まれていったのではないかと思います。

タゴール協会

プロジェクトの主要人物たちに心から感謝を

「インドの森プロジェクト」が誕生し、その後も長く継続できた背景には、3人の方々の存在がありました。前述の通り、インドでの植林のきっかけをつくってくださった自然農法の第一人者・福岡正信さん、インドの村の発展に尽力する「タゴール協会」のダスクブタさん、そして、農業や仏教の見識が高く、日本とインドの橋渡し役となった牧野財士さんです。通訳をはじめ、いろいろなことを取り持ってくださった牧野さんの存在は大きく、彼がいなければ、「インドの森プロジェクト」はここまでうまくいっていなかったと思います。牧野さんは、1958年にインドに渡って、はじめは農業指導を行っておられました。その後、いろいろとご苦労を重ねながら最後の15年ほどはシャンティニケタンにある「タゴール大学」で日本語の先生として教べんをとっておられました。ダスグプタさんがインドに福岡先生を招へいする際に、牧野先生に福岡先生の通訳と身の回りのお世話をお願いしたことが三人の出会いのきっかけでした。牧野先生は本当に誠実なお人柄で、私たちがいざインドでプロジェクトをはじめようというときにも、「牧野さんには、プロジェクトに絶対に関わってもらうべきだ」と、「タゴール協会」の方から強い進言があったほどです。「インドの森プロジェクト」がはじまる頃は、ちょうど定年退職されたタイミングでしたのでプロジェクトに協力していただけることになったのです。なお、現地では、牧野さんの功績をたたえて、象が帰ってきた丘は「マキノヒル」と呼ばれています。こうした、プロジェクトを続けてきたからこその出会いと経験は、私の財産です。

左から、牧野さん(2010年逝去)、福岡さん(2008年逝去)、ダスグプタ(1999年逝去)さん。それぞれの思いや生命力を受け継いだ星さん。これからどのような物語を紡いでいくのでしょうか。

毎年インドを訪問する。星さんの揺るぎなき決意

現地で活動をしてくれるのは村の人たちであり、「タゴール協会」の方々でしたから、私が大変だと感じたことはありません。私がただ一つだけ決めていたことは、「どんなことがあっても、単にお金を渡してあとは任せっぱなし、という支援ではなく、1年に一度は現地へ行って森や村の状態を確認する」ことでした。1992年以降、コロナ禍の3年間をのぞいて、毎年インドを訪れています。決まった時期が来ると、私はインドに行ってしまうので、役員をしていた頃は社内のスタッフがあきれていましたけれど(笑)。しかし、その甲斐があってか、ダスグプタさんの後任者の方が、村の人たちと直接的にコミュニケーションをとって、信頼関係が育まれていることを褒めてくれたときは素直にうれしかったですね。そうしたインド側と私たちの間に絆が生まれてきたからなのか、村の人たちはほんとうに誠実に植林に取り組んでくださいました。また、毎年訪れることで、小さかった現地の子どもたちが大人になるまで成長を見守ることができたり、木々の成長を一緒によろこんだり、村の自慢話を聞いたり。ともに一喜一憂できるって、とてもうれしいことじゃないですか。今、村の若い人にとっては森がある風景が当たり前で、その土地が以前は砂漠状態だったことを知らない人が増えているようです。象の群れが帰ってきた西ベンガル州ジャルバクダ村では、7~8年でもう立派な森に変わりました。ですから、植林をした頃に赤ちゃんだった子どもは“森がない”風景を知らないんですね。一方で、80歳過ぎの高齢者の方は、昔は森があったのに自分たちがすべて伐ってしまったので、また森が復活したことをとても喜んでいます。それを繰り返さないように、そのことを子どもたちにきちんと伝えているわけです。

彼がまだ小学生の頃、星さんは花束を贈ってもらったことがあるのだそう。子どもだったけれど、今では30歳の青年に成長しました。

彼がまだ小学生の頃、星さんは花束を贈ってもらったことがあるのだそう。
子どもだったけれど、今では30歳の青年に成長しました。

私たちが努力した先に、平和な未来がきっとある

30年以上続けてきた「インドの森プロジェクト」における私の夢は、これからもずっとこの活動が継続していくことです。お客さまに応援していただける限りは、たとえ小さな活動であっても続けていきたいと思っています。現地では、植林が定着し、あちこちの村々で生命・生業・生活の循環するようになったことで、インド政府や現地での資金調達も可能になってきました。

そして、もう一つの夢は、支援してくださっている人たちをインドにお連れすること。これはプロジェクト発足当時から、ずっと持っている野望です。植林や木々の成長は、目に見える結果でしかありません。基金や現地での活動を通じて、その行いを知った人たちが、“自分ごと”にして考えてくれることにこそ意味があると、私は思うんです。「あなたなら、この状況に対してどういう行動を取りますか?」と、問いかけるための仕組みです。だからぜひ、現地に行って、見て、感じて、地球の環境や私たちの暮らしのことをともに考えていきたいんです。きっと、十人いれば十通りあるはずのアイデアを共有しながら、プロジェクトに参加する人たちの意識が変わっていくことが、「ともにしあわせになるしあわせ」の実践だと思うんです。環境と平和は、努力しないと維持できない。だからこそ、これからも活動すること、伝えていくことを続けていきたいですね。

フェリシモの森基金

月1口 ¥100

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