こんにちは、フェリシモ基金事務局のmotoです。
「東北花咲かお母さんプロジェクト」は、東日本大震災で被災した地域の女性たちが手づくりした商品を東北を応援するカタログ『とうほく帖』などで販売し、売り上げの一部を基金として積み立てて、そのお金で被災したまちに花を植えるプロジェクトです。
被災した方々への支援という視点だけではなく、東北で生活するお母さんたちが主役となってまちの復興を行いたいという思いから発足しました。
東北沿岸部の各地においてお母さんたちによるさまざまなものづくりを実現し、たくさんの花を咲かせることができたのは、当時、担当社員だった児島永作さんの被災地やそこに暮らす人に対する思いと、お母さんたちとの関係性があったからこそ。
「東北花咲かお母さんプロジェクト」をきっかけに東北へと職住の拠点を移し、現在は日本全国でローカルのものづくりに携わる児島さんに、プロジェクト発足の背景とそこにかけた思いをお聞きしました。
話し手:児島永作(元フェリシモ社員)さん
聞き手:フェリシモ基金事務局
花を植えることでまちに彩(いろどり)が戻った
東日本大震災が発生する前に一人旅で岩手県を訪れていて、東北とは個人的なご縁があったんです。まちの名を聞けば人の顔が浮かぶ場所が津波でのまれてしまうのを見て、居ても立っても居られず、2011年の4月末からGWの休みを利用して陸前高田や大槌町でのボランティアに参加しました。学生時代に建築現場のアルバイトをしていた経験を生かして、瓦礫の撤去や水産倉庫から散乱してしまった腐ったサンマを拾い集める作業のお手伝いをしていました。そして、夏休みを利用して再びボランティアに参加した際に、お花を植える活動を行いました。まちにはまだ瓦礫が残り、凄惨な景色が広がっていました。しかし、色のなくなったまちに花を植えると、ぱっと彩りが戻ったんです。通りがかりの住民の人たちも、にこやかな表情で花を眺めたり、活動を見守ってくれて、まちの空気感が変わった気がしたんですよね。このときの体験が「東北花咲かお母さんプロジェクト」をはじめる布石となりました。
地元の人たちとともに歩むプロジェクト
やがて、社内でも東北を支援する活動が活発になっていきました。僕は現地を見てきた体験や、地域のものづくりや復興に関することを手がけていきたいという思いもあり、社内の復興プロジェクトに積極的に関わるようになりました。もともと、アパレルブランド「haco.」の担当をしていたご縁から、東北のお母さんたちとものづくりを行い、内職賃金をお支払いできる仕組みをつくっておられた企業さまから「フェリシモさんも参加しませんか」と声をかけていただき、東北のお母さんたちと「haco.チーム」とのつながりができていったんです。特に僕は、お母さんたちと手作業の打ち合わせや生産管理をするために現地に通うようなっていったのですが、こうした取り組みは、誠心誠意をこめて慎重に進めなければいけないと常に自分を戒めながら活動をしていました。というのも、僕たち外部の人間がよかれと思って行ったとことであっても、それが現地の人に望まれていないことになってしまっていたり、企業のエゴが出てしまったりすることもありますし、ボランティアで現地を訪れた際にセンシティブな雰囲気を感じていたので、地元の人のことを一番に考えながら復興に関わっていきたいと思っていました。
支援“される側”から“する側”へ
2012年に、『とうほく帖』という東北で作られたかわいいものを販売し、作り手さんとお客さまをつなぐカタログを担当することになりました。その頃、社内の勉強会で、江戸時代に関東で農政復興を成し遂げた二宮尊徳のご子孫にお話を伺う機会があり、「報徳金制度」というものを知りました。端的に説明をすると、江戸時代に、高金利で借金をした農民は利子の返還に追われて、出口のない貧しい生活を強いられていました。そこで、尊徳は自分が借金を肩代わりして農民に無利子でお金を貸す代わりに、金額を1ヵ月分上乗せして返済をしてほしいと頼みます。首をかしげる農民に対して、尊徳は「その1ヵ月分で、あなたのように同じ苦しい思いをしているまた別の人たちを助けることができます」と説明をします。つまり、尊徳は、借金を返済し終えた農民が、今度は別の農民を助ける側になれる制度を作ったのです。人間が尊厳を取り戻すのは、借金を完済をした瞬間ではなくて、支援“される側”から“する側”になったときなのだ、というストーリーを聞いたときにまさに脳天に電撃が走って。お母さんたちにものづくりをお願いして、賃金をお渡しするだけでは尊徳のいう“完済”で終わっているなと。お母さんたちに、まちを元気にする主役になってもらいたいと気づき、同時に、ボランティアに参加したときの花を植えた体験が重なり始めたんです。お母さんたちが道路を修繕したり、家を建てたりすることはできないけれど、花を植えることならば主役になれます。
そこでスタートしたのが「東北花咲かお母さんプロジェクト」です。お母さんたちに手仕事を依頼して、内職賃金をお支払いする。さらに、商品価格に100円の基金をプラスして販売。売上の中からその基金分を積み立てて、お母さんたちの地元に花を植えようという、フェリシモの基金のスタイルを存分にいかしたプロジェクトです。津波の被害にあわれた沿岸部それぞれのエリアにお母さんたちの内職グループがありますので、その土地でお願いしたお仕事から生まれた基金は、その土地にお花として返すと決めて、仕事としてのものづくりと、花植えをセットにして各地で展開していきました。
膝をつきあわせて行うものづくり
フェリシモがさまざまな活動を行うにつれて、東北のお母さんたちのつながりもどんどん広がっていきました。まずは僕が現地へ出向いてプロジェクトの説明をして、賛同していただいたら「まずはやってみましょう」という感じで進めていきました。たくさんの方々に参加していただきたかったので、なるべく場所を固定しないようにしていました。商品づくりは、「クチュリエ」の手芸キットでお母さんたちに完成品を作っていただく方法、宮城大学の学生との共同開発、アーティストやモデルさんとのコラボレーションなど、いろいろなかたちで展開していきました。「クチュリエ」の手芸キットの場合は、まずは僕が作り方をマスターして、出張してお母さんたちに伝授するという方法をとっていました。一本の糸から繊細なレースを作り上げる「タティングレース」のアクセサリーを作った時は、自分のゴツゴツした大きな手で細い糸を扱うのがほんとに大変でしたね。社内で企画担当者に教えてもらって、出張に行く新幹線の中で練習したりして。仙台のお母さんたちが「さすがに今回はくじけそう……」とおっしゃる隣で、まるで鬼コーチのように作り方をお教えして。みなさんすごくがんばってくださって、次に伺ったらたくさんのレースがキレイに完成していました。
そこに暮らしているような距離感で
こういうものづくりは、もっと効率的に行うことができたのかもしれません。けれど、効率を重視すればお母さんたちの気持ちが離れてしまうと思っていました。だから、企業としてのお付き合いではあるけれども、個人としてお母さんたちと関係性を築くことにこだわりをずっと持ち続け、少なくとも月に1度くらいは「こんにちはー」と作業場を訪れていました。そんなことを繰り返しているうちに、お母さんたちが一品ずつおかずを作って持ってきてくださるようになって(笑) まずはみなさん自慢のおかずをいただいてから仕事を始める、なんてことが増えていきました。企画者である僕自身が、そこに暮らしているくらいの距離感でお付き合いするのだと腹をくくっていなければ、信頼を築くことはできないだろうし、取り組みそのものがうまくいかないと思うんですよね。また、内職も、お母さんたちがそれぞれの家に持って帰って作った方が効率はいいかもしれないけれど、みんなでお茶を飲み、おしゃべりをしながらともに過ごすことに意味があるというか。「一人で家にいたり、ずっと避難所にいたら気がおかしくなりそうだけど、定期的にみんなと話して笑いあえ時間が増えてよかった」と、お母さんたちがよくおっしゃっていました。
もう戻れないかもしれない。それでもまちに、花を咲かせよう
宮城大学の学生さんとともに共同開発を行なった際は、福島県の伝統工芸である絵ろうそくをヒントにしたキャンドル「花咲かお母さんたちが楽しんで描いたアートキャンドルの会」が誕生しました。学生がデザインした東北6県のキャラクターをキャンドルに絵付けするというもので、作業にご協力いただけるお母さんたちを探したところ、東京電力福島第一原子力発電所のある大熊町から100キロ離れた会津若松に避難しておられるグループの方たちとつながりました。もう二度と、暮らしていたまちには戻れないかもしれないという、僕たちが想像し難い現実を抱えながら避難所での生活を送っておられました。お母さんたちに、「商品が売れてお金が貯まったらお花を植えましょう」と話をしたら、「今暮らしている場所に植えるの?大熊に植えるの?もうまちには入れないでしょう」という話になったんですね。「お母さんたちは、どうしたいですか?」と僕がお聞きすると、いつも元気なお母さんが、ぼそっとつぶやくように「私はやっぱり大熊町に植えたいなぁ」とおっしゃって。「では、やれるだけやってみましょう」ということで、大熊町役場の会津若松出張所へ相談に行ったんです。当時の出張所はプレハブ小屋で、中には4名くらいの職員の方がおられました。「東北花咲お母さんのプロジェクト」の概要と、福島のお母さんたちの思いを窓口の方に説明すると、後ろに席に座っていた職員の方たちも椅子から立ち上がって、地図や資料を引っ張り出してきてくれて。地図を広げて「ここなら花を植えられるかな」というやりとりが目の前で瞬時に繰り広げられ、大熊町を思うみなさんの気持ちにグッと胸に迫るものがありました。
そして、大熊町の中でも被害が少なく帰還困難区域外の「坂下ダム」付近で花植えをすることになりました。「東北花咲かお母さんプロジェクト」では、商品をご購入いただいたお客さまに呼びかけて、お客さまとともに花植えを行っていましたが、このときばかりはお声がけするかどうか悩みました。しかし、安全ではあるけれども一部に放射能の影響があることも正直にご案内した結果、数名の方にお越しいただきました。お母さんたちと、大熊町役場の方たちと、お客さまと一緒に、「50年、100年、もしかしたら200年先かもしれないけれど、私たちの子孫がここを散歩できたらいいな」という夢を描きながら80本ほどの桜の木を植樹しました。もう戻れないかもしれないまちに、希望の火が灯ったひとときでした。
ライバル同士も手を携えて行う復興支援
震災がきっかけで、競合する企業が集まって事業をシェアするという流れもできたように思います。例えば、2011年にスタートした「東北コットンプロジェクト」は、津波によってお米づくりが困難になった農地にて被災した農家さんがコットンを栽培して、企業が紡績や商品づくり・販売を共同で行うというもの。普段は競合企業と呼ばれる人たちが同じ畑の上で雑草を抜いたり、収穫をしたり、そしてその綿でそれぞれのブランドが服を作ったりするという、業種の垣根を超えた体験をもたらしてくれました。また、音楽家の小林武史さんらによる「ap bank」がプロジェクトの支援をしていたご縁から、My Little Loverのakkoさんが声をかけてくださって、岩手県の野田村のお母さんたちとともにMy Little Loverのオリジナルグッズを制作して販売をしたこともあります。「東北花咲かお母さんプロジェクト」は、企業としての取り組みではあるものの、なるべくオープンにしておいて、理念や仕組みを理解していただいた方は誰でも参加できるプラットフォームでありたいという意識は常に持っていました。
東北に、ゼロからものを生み出す力を
「東北花咲かお母さんプロジェクト」は、たくさんの方々に支援していただき、おかげさまで東北の各地にたくさんの花を咲かせることができました。また『とうほく帖』のカタログでもたくさんの作り手とコラボをしてヒット商品を数多く生み出すこともできました。しかし一方で、その土地に何かを残せたのだろうか、僕たちの支援活動は単発の打ち上げ花火のようになってはいないだろうか、という思いも残りました。そして、5年間の東北での活動を踏まえて、僕たちが企画という大切な部分をしてしまうのではなくその地域で暮らす人々が魅力的な商品を生み出せる、いわば花火職人を育てていく必要があるのではないかと考えるようになりました。そこで、地元の方が商品企画のノウハウを学べて、自分の力でヒット商品を生み出せる仕組みをつくろうと、2016年にフェリシモの東北事務所を立ち上げて、僕も仙台へ移住して、東北の事業者の商品開発をサポートする新事業をスタートしました。「東北花咲かお母さんプロジェクト」に参加してくださったお母さんたちは、仕事を再開されている方もいれば、コツコツを内職を続けておられる方もいたり、それぞれの生活を営んでおられます。
あたたかみと希望を届けたい
東北のお母さんたち手づくりの商品には「私が作りましたカード」を同封していました。一つひとつ作った人が異なるので、左面にお母さんたちの顔写真とメッセージを載せて、右面にはお母さんたちへメッセージが送れる返信用カードをつけていました。返信用カードは、切手を貼ってプロジェクトの係まで送っていただくという、アナログで手間のかかる方法であったにも関わらず、本当にたくさんの方からメッセージが届きました。それを仕分けして、僕が東北に出張するたびにお母さんたちへお渡しするんです。そうすると「私はこんなに人に喜んでもらえる仕事ができたんだ!」と、喜んでくださって表情が明るくなって。これこそが二宮尊徳の言う人間の尊厳を取り戻す瞬間だったのではないかと思います。
「東北花咲かお母さんプロジェクト」は、「いつか、まちに咲いているお花をみんなで見よう」ということをゴールに設定していました。花を植えるときには、商品を購入してくださった方がボランティアとして全国から来てくださって、一緒にお花を植えて、ともに芋煮を食べて……というような交流の場もたくさん生まれました。体験を共有することで、作り手の顔やその土地の風景が浮かびます。作った人にとっては、商品作りのモチベーションにもなります。そういうものづくりは、みんなにとってハッピーですよね。そして、被災地で暮らすという厳しい現実のなかで、地元の方たちにとって、人のあたたかさに触れ、未来に希望を感じられるプロジェクトになっていればうれしいです。
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