こんにちは、フェリシモ基金事務局のmotoです。
1995年に起きた、阪神・淡路大震災。
当時、フェリシモの本社はまだ大阪にあり、翌月に神戸への移転を控えていました。
そして同年9月に大阪から神戸へやってきた私たちフェリシモは、あの地震が起きてから、各地で災害が起きるたびに、どのような支援が必要とされているのかをお客さまとともに考え、ともに行動してきました。
阪神・淡路大震災が起きたとき、真っ先に支援の手を差し伸べてくださったのはお客さまでした。その思いから始まった「毎月100円義援金」は、1995年から6年半に渡りたくさんの思いを寄せていただき、4億円を超える基金となりました。いつもお客さまとともに。現地の方々からニーズを聞き取り、その時々に必要な支援を届けるために第一線を走り続けてきた吉川公二さんにお話を聞きました。
話し手:吉川公二さん
聞き手:フェリシモ基金事務局
お客さまのお気持ちが基金の礎をつくった
阪神・淡路大震災が起きた1995年1月17日。私の記憶では、2〜3日は電車が止まっていて、会社に行くことができない状況でした。ようやく出社でき、被害の全貌も分からないなかすぐにとりかかかったことは二つ。ひとつは、全国にいるお客さま、お取引先さま、フェリシモの従業員とそのご家族の安否確認です。もうひとつは、被災された方への対応です。家が倒壊してしまったり避難されていたり、悲しいことに亡くなられた方もいらっしゃいました。商品をお届けしてもご迷惑ではないのか、今月の入金は期限通りにしなくてかまいませんなどといった伝言を、スタッフが手分けしてご連絡しました。
それと同時に、全国のお客さまからたくさんの応援メッセージをいただいたんです。大きな地震でしたから、関西に本社を置くフェリシモはなくなってしまったのでないかと心配される方もいらっしゃいました。さらに数日すると、現金書留で義援金をお送りいただいたり、「おつりを役立ててください」と商品代金を多めにお振り込みいただいたり、お客さまから直接支援をいただくようになったのです。私たちは、1989年ごろから「ともにしあわせになるしあわせ」という経営理念を掲げています。今、お客さまとともに何ができるのか。いただいたお気持ちをどのような支援に役立てるのか。私たちだけで考えるのではなくて、改めてお客さまに呼びかけてみようということで、「緊急義援金」というかたちに切り替えて引き続き支援をお願いしました。あっという間に4000万円もの支援が集まり、すぐに被災者の方に届けしようということで、フェリシモがさらに同額をプラスして、神戸市を通じて日本赤十字社にお預けしました。
しかし、阪神・淡路大震災の被害は甚大で、フェリシモは長期的な支援方法を模索していました。そこで、1990年にスタートしていた「フェリシモの森基金」の仕組みを応用して、毎月お客さまから100円をお預かりする形で始まったのが「毎月100円義援金」です。この仕組みをはじめ、阪神・淡路大震災での経験はその後の災害支援の礎となっていきました。
まちと一体となり復旧・復興を行う覚悟で
お客さまからお預かりした基金ですから、義援金の使い方も全国のお客さまに相談しました。被災地のどのような方を対象に基金を使うべきかをおたずねしたところ、こども、女性、高齢者、障がいのある方、外国人、ペット…などのアイデアをいただきました。その情報をもとに、被災地指定の10市10町(当時)のまちづくり協議会さんやNPOさんなど、地域のリーダーさんたちと連携して、現地で求められていることをヒアリングしながら支援を行なっていきました。
なお、私たちが初めて被災地の現場を訪れることができたのは記録によると3月5日でした。東灘区の青木駅までしか電車が通っていなかったので、大阪から公共交通機関で神戸の中心部には行けませんし、現在のように携帯電話も普及していませんでしたから、アマチュア無線連盟さんと協働して物資を運んでいきました。
被災地の支援と同時進行で、フェリシモの引っ越しについて考えねばなりませんでした。当初予定していた2月から9月に移転を延期したものの、当時の神戸はまだ安全が担保できない状況でしたから、「やめておいた方がいいのでは」というお声もありました。しかし、復興に向けて活動を行うなかで、神戸とのご縁も深まっていましたし、私たちの神戸へ移転する決意はゆるぎませんでした。
震災の年に神戸へ引っ越しをしたことは、まちと一体となって復旧・復興を行なっていく、ともに歩んでいくという覚悟のあらわれでもありました。移転の前日に、社長から社員全員にメールが届いたんです。「神戸への引っ越しを、21世紀への引っ越しだと思って、新しい年もみんなで力をあわせてがんばっていきましょう」と。
移転を経て、大阪から発信していたものと神戸で生まれるプロダクトは明らかに異なるものだったんです。働く環境や誰とものづくりを行うのかによって、そこから生まれてくるものは変わってくるのだと思います。私たちはものをつくって売る会社ですから、常に新しいものを発信していかなければなりません。2021年の本社ビルへの引っ越しを経て、きっとまた、新しく生まれるものがあるのだろうと思います。
神戸の元気を伝えるために
私たちはダイレクトマーケティングの会社ですから、お客さまとモノや情報のキャッチボールがあります。そのやりとりを活用してなにか支援ができないかということで、お客さまのアイデアから、ベルマークを集めたり使用済みの切手を集めて現金化したり、被災地へ寄付をすることにしました。当時、注文書を返信用封筒に入れて郵送していただいておりましたので、その中に同封をお願いしました。1999年末時点で1150万円分もの寄付が集まりました。
1995年の3月からは神戸の状況を全国のお客さまへお届けするためのニューズレター『もっと、ずっと、きっと。』を発行しました。現地レポートとして、看護師の故・黒田裕子さんやフォトジャーナリストの冨安大輔さんに、神戸の現状についてレポートを書いていただきました。震災から3、4ヵ月もたつと、震災のことは報道されなくなっていきました。けれど、まだまだ復旧はされていません。主要メディアでは神戸の状況が伝わらないので、「神戸はもうだめになってしまったのではないか」と思う方もたくさんいらっしゃいました。私たちフェリシモは、もっと「神戸は元気です!」というメッセージを伝える使命があると考えました。
そこで、ものが買えるカタログという機能を生かして神戸を支援していきたいという思いのもと、その年の12月には『神戸カタログ』を発行します。フェリシモは、全国にお客さまがいらっしゃって、ものを売る力があります。神戸でがんばっているお店や製造業の方たちとともに商品をつくって全国に発信しようということで生まれたのが『神戸カタログ』でした。神戸のつくり手によるフェリシモオリジナル以外の商品も掲載し、カタログに売り場をつくったんです。この『神戸カタログ』は、阪神・淡路大震災から10年後の2005年にも、神戸の元気を伝えるメッセージとして再び発行しました。
後編はこちら
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