公式X

推しは人生の伴走者―文芸・映像作品から読み解く推しと生活と私―

推しがいる生活。イコールしあわせ。カジュアルにしあわせ。

落ち込んだときにスマホのロック画面に設定した推しをひと目見れば気を取り直して上を向くことができるし、推しがSNSを更新するだけで口角が上がって体が軽くなる。なんなら1ミリくらいは浮いているかもしれない。これ、大げさではなく。

一ヵ月後のライブ、一週間後のテレビ出演、今日仕事終わりのインスタライブ。私たちオタクは、そのひとつひとつを目指して「それまでは……生きる……」と自分を奮い立たせている。

そう。推しを「生きるための支柱」にしているオタクは少なくない。それはリアルイベントとしてのひとつの楽しみでもあり、精神的な意味での支えでもある。

オタ活をしていない人からすれば、オタクの生活はさぞ推し一色に見えることだろう。私自身、そうできればどんなにしあわせだろうと思う。けれど現実はそう簡単ではないし、実際、私たちはまあまあちゃんとしている。いくら頭のなかが推しでいっぱいであろうと、なるべく人に迷惑をかけないよう、社会生活を全うしようと精一杯だ。

急な仕事、無限に続く家事、貯金と推し活費のせめぎ合い。100%の推し活を阻むもの、それは生活なのである。ただ、私たちはそれをないがしろにすることはできないし、もちろんしていいものでもない。生活があるからこそ推し活が成り立つ。「生活」と「推し活」は表裏一体の関係なのだ。

しかし一転、フィクションに目を向けてみるとどうだろう。作品のなかの彼らは、現実で私たちが踏んでしまうブレーキをひと思いにぶっ壊して突き進む。その爽快さ、あるいは危うさ。生活なんてくそくらえ。100%の推し活を体現して愛を叫ぶその姿は、私たちの願望をかなえたひとつの理想の形とも言える。

この記事では、「推し」を題材にした作品が注目され「推すこと」が市民権を得てきた今、改めて「推し活」と背中合わせの「生活」に目を向け、フィクションのなかで描かれるさまざまなタイプの推し活を紹介しながら、その関係性について考えていきたい。

※作品の設定や推し活の様子についてのネタバレを含みますが、物語の結末がわかるような重大なネタバレはありません。記事を読んで、気になった作品はぜひ鑑賞してみてくださいね!

タイプ1「青春型」:バカみたいな‟あの頃”に推し活あり

推し活を語る上で重要なキーワードになるのが「仲間」の存在である。ひとりで推しても推しはもちろん尊いが、仲間がいれば百人力、楽しさは何倍にもなる。

男たちが魅せる!本気のオタ活―映画『あの頃。』(監督:今泉力哉)―

本作で描かれるのは、音楽を志しながらもパッとしない日々を送っていた主人公・劔が、ある時あやや(松浦亜弥)のミュージックビデオを目にして心を動かされ号泣、推しとの奇跡の出会いを果たし、ハロプロオタクの仲間たちとハロプロにまみれて過ごすことになっていく青春の日々だ。

当初はオタ活の右も左もわからなかった劔にその手ほどきをしたのはほかでもない、後に彼の大事な仲間となる「ハロプロあべの支部」のメンバーたち。劔はバンドをやめてあややにのめり込み、メンバーと夜な夜な推しのライブ映像を鑑賞したり、あべの支部のイベントに出演したりと、生活は推しを中心に回り出す。
殺風景だった部屋の壁が推しのポスターやグッズで埋め尽くされていく様は、劔の生活が推しの出現によって推し一色に塗り替えられていったことを物語っている。

null

2021年6月18日(金)発売
Blu-ray:¥4,800+税/DVD:¥3,800+税
発売元:TCエンタテインメント/クロックワークス
販売元:TCエンタテインメント
©2020『あの頃。』製作委員会

推しに会いたい、ただそれだけ!―映画『私たちのハァハァ』(監督:松居大悟)―

本作の主人公たち、北九州に住むチエら女子高生4人組は、ロックバンド・クリープハイプの大ファン。福岡で行われたライブでの出待ちの際、ボーカルの尾崎世界観に「東京のライブにもぜひ」と言われたことをきっかけに、彼女たちは“ノリで”東京行きを決める。家族にも内緒で家を抜け出し、昼夜自転車を漕いで1000㎞離れた東京を目指すことに。

勉強や部活、友達、家族、恋愛、それから進路のこと。地方に暮らす高校生の世界は狭く、しかしそれは彼女たちの生活のすべてだ。一時的にでも生活をすべて投げ打って、そのときだけは推しのことだけを考えて、推しへの気持ちを共有できる仲間たちだけで過ごす時間。推しに捧ぐ秘密の自転車旅行は、高校生の彼女たちにとって夢のような大冒険である。

 

煩わしいほかの一切(その多くが生活であるが)に構うことなく、仲間と共に何かに夢中になる。この構図は推し活のひとつの定型と言える。傍から見ればバカみたいな行動も、本人たちにとってみればかけがえのない一瞬だったりする。推しを推すその過程も含めての推し活。この2作で描かれるのは「青春型」の推し活である。

かつての青春の思い出が現在の自分を支えてくれる、という経験は、覚えのある人も多いのではないだろうか。この2作品のなかの彼らにとって、それが仲間との推し活だった。

タイプ2「救済型」:推しがいるから生きている

好きなものに夢中になる推し活は楽しいものだが、人が誰かを推すようになる背景には楽しさばかりがあるわけではない。

「背骨」の表現に思わず膝を打つ―小説『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著、河出書房新社)―

現役大学生芥川賞受賞の話題も記憶に新しい本作の主人公・あかりは、アイドルグループ・まざま座の上野真幸を推している。あかりは勉強もバイトもうまくいかず、家族とも学校ともうまくやれない。生活のすべてがままならない。「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる」と感じている。

そんなあかりが、唯一生きた心地を得られるのが推しを推しているとき。推しを推すことが自分の「背骨」であるという言葉の通り、あかりの場合、生活の上に推し活が成り立っているのではなく、今にも崩れ落ちそうな生活をすんでのところで推し活が支えている、といったところだ。その切実さを見るに、もはや推し活を「ただの趣味」や「見返りのない疑似恋愛」などと片づけることは到底できない。推しがいることで生きていれられる、謂わば「救済型」の推し活である。

null

推しはもう一人の自分―ドラマ『だから私は推しました』(脚本:森下佳子)―

本作の主人公・愛の推し活も、「救済型」の派生といっていい。リア充な生活をしながらも人の目ばかりが気になり生きづらさを感じていたOL・愛は、地下アイドルグループ・サニーサイドアップのハナと出会い、彼女を自分の分身のように感じたところからオタ活をスタートさせる。

『推し、燃ゆ』でもあかりが推しに自分を重ねる描写があるが、「推しを徹底的に解釈し自分に取り込む」タイプのあかりに対し、『だから私は推しました』の愛は、「自分と推しが似ている」という意味で互いを重ね合わせる。歌もダンスも下手で表情も暗い、決してアイドルらしいアイドルではなかった不器用なハナが、日々、前に進もうとまっすぐに努力する姿を見て、愛自身も変化していくことになる。

 

「推しがこんなにがんばっている。だから私もがんばらなきゃ」。そう自分を鼓舞して生活しているオタクは多い。愛の台詞「推しの夢は俺の夢」「推しを推し上げてこそのオタ」の言葉の通り、理想へひた走る推しを自分のことのように全力で応援する。「もう一人の自分」のキラキラした姿に元気をもらい、再び自身の生活へ向き合っていく。推し活には、そんな救済もある。

タイプ3「崇拝型」:推しこそ生活のすべて

最後に紹介する作品は、他の4作品のように直接的に推し活をモチーフにしているわけではない。少し趣が異なるが、人が人を強く想う姿を描いた作品として、誰かにどうしようもなく夢中になったことのある人に是非観てもらいたいという筆者の思いから、ここで紹介させてもらう。

過剰な愛を貫く男たちの物語―映画『君が君で君だ』(監督・原作・脚本:松居大悟)―

この映画では、言うなれば「崇拝型」の推し活が描かれる。本作の主人公たちの想い人は、有名人でも二次元のキャラクターでもない、一般の女性だ。これを推し活と言っていいかは躊躇われるところだが、相互コミュニケーションの成立しない相手に対して一方的な愛を募らせる、という構図がアイドルとファンの関係性に近いものとして、ここでは「推し」と呼ぶことにする。

ある女性のことが好きでたまらない男3人が、彼女が好きな男(尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬)になりきり10年、窓から彼女の部屋が見えるボロアパートで共同生活を送りながら彼女の生活を見つめ続ける。彼女のことを「姫」と呼び、自らを姫を守る「兵士」と言う。見つめる、守ると言えば聞こえはいいが、やっていることは監視や盗聴であり、部屋を埋め尽くす彼女の写真はすべて盗撮だ。完全にアウトである。

部屋には彼女を好きになるきっかけになったハンカチが額に飾られており、それに向かって謎めいた動きで祈るようなシーンがある。その様子を見るに、彼らが抱いている感情は疑似恋愛や憧れといった、推しへの気持ちとして比較的オーソドックスなものではなく、どちらかといえば神を崇めるようなものに近いのだと感じる。神聖な、すべてを超越した存在、それが推しであると。

彼らの日々は文字通り推し一色。寝ても覚めても推しの監視をして、推しの行動ひとつひとつに全力で一喜一憂する。生活のための生活を可能な限りなくし、すべてを推しに捧げる。彼らにとっての生活はイコール推し活であり、その盲目な様は過剰で痛々しく、見ているのがつらくなるほどだ(それなのにどうしてか胸を打たれる)。

©2018「君が君で君だ」製作委員会

沼もオタクも今や多種多様で、人の数だけ推し活があると言っていい。

『あの頃。』の劔があややの握手会に行くことを逡巡したとき、藤本美貴推しのコズミンに「毎日楽しいのは誰のおかげだ」と言われるが、彼らもまた、うまくいかない日々を推しが照らしてくれた(救済型)と思っているだろうし、『だから私は推しました』の愛はライブに足を運ぶようになってすぐ、サニーサイドアップを推すオタクたちと知り合いオタ活のイロハを教わるが、これは劔とあべの支部の関係に似ている(青春型)。『君が君で君だ』の、ハンカチが飾られた額や写真の数々は、『推し、燃ゆ』のあかりの部屋にある「祭壇」(推しのCDやグッズが飾られた棚)を思わせる(崇拝型)。

十人十色の推し活ではあるが、どの推し活にも青春の楽しさや救済の切実さ、尊いものを崇める気持ちがグラデーションのように存在しており、だからこそ私たちは自分以外のオタクにも共感し、互いを認め合えるのだ。

今を生きる力をくれる推し活、その果てに

何かに夢中になって周りが見えなくなることには弊害もある。生活を圧迫してしまったり誰かを傷つけてしまって後悔したり、暑苦しくて、みっともなくて、自己嫌悪に陥ることもある。けれどそれでも、オタクにとって推しを推している時間は必要不可欠で最も尊い。10代のきらめきが若さゆえの過ちと隣り合わせであるように、そして振り返ればそれは何物にも代えがたい人生の1ページであるように、推し活は危うさを孕みながら、他のものでは替えのきかない、推しを推すことでしか得られない感情をもたらしてくれる。

「何か(誰か)を推す」ということは、一見すると目の前の生活から目を背ける現実逃避のように見えるかもしれない。でも実は逆の効用があるのでは、と私は思うのだ。ひたすら推しに突き進み、その果てに見るもの、立ち返る場所。遠回りかもしれないが、遠回りには遠回りの意味がある。

作品のなかで笑い、泣き、もがきながら生きる登場人物たちのその一瞬に、あなたもきっと自分を見る。ぜひ作品を鑑賞して様々な推し活の世界を覗いてみてほしい。そのときそのとき違う形で、きっとあなたに寄り添ってくれるはずだ。

これからもままならない現実を踏みしめて歩いて行くそのために、劇中の彼らのように、私も私の推し活を大切に抱きしめて生きていきたい。

Series 連載コラム

一覧はこちら

Page top