#15 [2025/02.11]

せんぱいたちの、このごろ

かつて私に広い世界を教えてくれた「食」を通じて、
誰かの心に残るなにかを伝えるような仕事がしたい

相澤裕子さんYuko Aizawa

こう語るのは、食品加工会社と飲食店の広報業務を経て、現在転職活動中の相澤裕子(あいざわ・ゆうこ)さん、26歳だ。

「なんてかわいらしくて温かいイラストなんだろう」。
ぼくの、シンプルレシピ』の写真に添えられたイラストを見ると、いつもほっこりした気持ちになる。どんな人が描いているのか気になり、話を聞いてみると、会社員の女性が描いているという。その世界観に惹かれ、彼女のことをもっと知りたくなった私は、思いつきのままに会いに行ってみた。

食や暮らしにまつわることに
興味があった子ども時代

神奈川県に生まれ、2歳のころに父の仕事の都合で神戸へ移り住んだ裕子さん。幼いころの記憶を辿ってみると、どれも「食」や「暮らし」につながることだという。

裕子さん:とにかく食に貪欲な子どもでした。母から聞く話によると、初めてしゃべった言葉も「マンマ」(幼児語でごはんを意味する言葉)だったようで、離乳食のころから食欲旺盛だったそうです(笑)。

裕子さんは身につけるものにもこだわりがある。この日履いていた靴はフェアトレードの素材でつくられているという

また、食べることだけでなく、食べ物にまつわるものを見たり、作ったりすることも好きだったという裕子さん。

裕子さん:絵本も食べ物が登場するものばかり読んでいましたし、自分の中にある一番古い記憶も、保育園で毛糸を使って自作の焼きそばを作っていた記憶です。

小学生になると、「生活」という授業に夢中になったそう。理科や社会、家庭科が混ざったような授業で、季節に応じた料理や暮らしの工夫を学ぶことができた。

裕子さん:おそらく祖母が調理師だったことや、母が「暮しの手帖」を愛読していたことも影響して、食や暮らしにまつわることを整えていくことに興味があったんだと思います。

その一方で、教育熱心な父から「算数はできないといけない!」と言われ、幼いころからむずかしい算数ドリルをこなしていたという一面も。

裕子さん:それもあってか、文系よりは理系の方が得意で、理科の実験などはとても好きでした。

しんどいときに広い世界を教えてくれた
コミックエッセイ

小学生のころに卓球クラブに所属していたことから、中学校では卓球部に入部した裕子さん。しかし、そこには困難が待ち受けていた。

裕子さん:少し早くに始めていたので、入部した当初はよかったのですが、本当は全然センスがなかったみたいで、すぐに周りとの差ができていきました。

さらに、中学1年生の途中から部活でいちばん仲のよかった友人と喧嘩をしてしまったことをきっかけに、一時的に部活に行けず、学校も休みがちになってしまったという。

裕子さん:親にも内緒で公園でぶらぶらして時間を潰したり。居場所がなくなったような気持ちでした。

そんなときに裕子さんを救ってくれたのは、イラストレーターのたかぎなおこさんのコミックエッセイだった。

たかぎなおこさんのコミックエッセイ「ローカルごはん旅」。当時持っていた本をそのまま持ってきてくれた

裕子さん:たかぎさん自身が、全国のさまざまな場所を旅して食べたものを漫画と写真で伝えている本で。狭い世界の中で居場所がないと思っていた自分に、食を通して世界の広さを教えてくれました。

さらにもうひとつの大きな支えとなったのは、当時の担任の先生の存在だったそう。

裕子さん:学校に行けなくなった時に、毎日家まで足を運んでくれて、先生と生徒という線を超えて、人として真正面から向き合ってくれた。私もこんな人になりたいと思って、いつしか将来の夢が教師になっていました。

大好きな食のことを学びながら
教師を目指す

人間関係を一からリセットさせたいという思いで、同じ中学校から進学する人の少ない高校を選択。高校生になってからも、「教師になる」というあこがれは途絶えることなく、理系科目が得意だったこともあり、具体的に「理科の先生」を夢見るようになった裕子さん。

裕子さん:でも、変わらず食べ物への興味もあったので、食関連の勉強ができて、かつ教員免許も取得できる大学を探して進学することにしました。

大学では、食品関係や健康医学に加え、教職科目の勉強など、幅広い知識を身につけた。しかし、あれだけ教師を夢見ていたにも関わらず、裕子さんが新卒で選んだ道は、食品加工会社。いったいなぜなのか。

裕子さん:教育実習の時に、現場の過酷さを知って、尻込みしてしまいました。子どもたちはかわいいし、教えることも楽しかったけれど、それだけが仕事じゃない。やることがあまりにも多岐に渡るのをみて、自分の暮らしも大切にしたい私にとっては向いていないと感じました。

アットホームな職場環境
自分の暮らしを自分でつくり始めた和歌山生活

裕子さんが入社したのは、和歌山県に拠点を置き、生産から加工、販売までを一気通貫で行う、有田みかんの食品加工会社だ。

裕子さん:大学2年生の時に、テレビでたまたまその会社の社員食堂が特集されている番組を観たんです。創業者の奥さんたちが料理を作っていて、それがすごくおいしそうだった。就活の時にその会社のことを思い出して、「こんなおいしそうなごはんを毎日食べられるなら!」と、面接を受けたところ、とんとん拍子に内定をいただきました。

入社当初、製造部でジュースの製造ラインに配属された裕子さん。しかし、肉体労働が多く、どうしてもからだがついていかなくなり、上司に相談したところ製造部内の総務の仕事を任されることになったそう。

裕子さん:ジュースができるまでにどのくらいの時間がかかって、どのくらいの材料からどのくらいの本数ができるのか、人件費はどのくらいかかっているのかというような、原価の計算をずっとやっていました。淡々とした作業ではありましたが、役に立っている感覚はありましたし、とてもアットホームな職場環境で、居心地よく過ごせていました。

さらに、田舎ということもあり、遊びに行く場所が多くないぶん、自分で何かを生み出すことに楽しさを見出したという裕子さん。料理をしたりお菓子を作ったり。暮らしまわりのことを自らの手でつくり始めたのは、和歌山での生活があったからだと語る。

しかし、3年間同じ仕事を続けたタイミングで、新しい仕事や環境に身を置きたいと思い始めたそう。

取材場所は大学時代に所属していたサークルのあった神戸大学。大学から見るこの景色が好きだったそう

裕子さん:少し飽きてきてしまって……。その時に自分のやりたいことを考えると、広報の仕事が思い浮かびました。実は、同期で入社した人が広報の仕事をしていて、すごく楽しそうだなと思っていました。人事異動を申請したこともあったのですが、かなわず。でもずっと興味があったので、思い切って挑戦してみようと思いました。

かつて自分を救ってくれたのは、食に関する情報だった。今度は自分が発信する側になりたい。

裕子さん:神戸に帰りたいという気持ちもあったので、「神戸・食・広報」で求人を出しているところを探し、神戸の老舗喫茶店の広報業務の仕事に辿り着きました。

やりたいことが明確になった。
次は100%自分のやりたいことができる場所へ
行きたい

喫茶店の広報業務では、SNSの更新やホームページの編集、メニューへのアレルギー情報の追加などを担当し、自分の大好きな食の魅力を伝える仕事の楽しさを実感したという。

裕子さん:心からおいしいと思うものを食べて、写真に撮って、自分でいいと思うところを伝えられる。私はやっぱりこういうことがやりたかったんだなということが、やってみて改めて分かりました。

しかし、全業務内容のうち、広報の仕事は半分ほどで、店舗に立つ回数が多かったそう。広報の仕事自体は楽しかったが、やりたいことが明確になったぶん、100%自分のやりたいことができる現場で働きたいと、1年8ヵ月で退職を決意し、現在転職活動中だ。

裕子さん:募集している場所が少ないので、むずかしいとは思いますが、かつて私に広い世界を教えてくれた「食」を通じて、今度は私が誰かの心に残るなにかを伝えるような仕事ができたらいいなと思っています。

裕子さんは、食を作る側・伝える側を経験する中で、自分の役割を見つけてきた。
食を通して心が動き、人生の選択を重ねてきた彼女だからこそ、今度は自分が誰かの人生を彩る存在になれるはずだ。
広い世界の中で、裕子さんが見つける新たな舞台が、きっと誰かの心に残るものになるように。彼女の未来に、心からのエールを送りたい。

裕子さん:「こんなときは、どんな表現をしたらよいのだろう……」年を重ねるにつれ、誰しもぶつかる壁だと思いますし、私もそのひとりです。『伝わるちから』は、そんなモヤモヤを少し軽くしてくれる、お守りのような1冊です。

STAFF
photo / text : Nana Nose