詩集『人はかつて樹だった』は、僕らがライブラリーなどで選書をする時の、定番となっているタイトルです。著者の長田 弘さんはすでに亡くなっていて、つまり新しい作品は出てこない。だけど一方で彼の詩は古びることなく、老若男女誰でも、どのタイミングで読んでいただいても、感じるところがある。人のどこかに“刺さる”というよりも“なでる”ような。
さらに言うなら、ここに書いてある言葉って、本当にイガイガがないんですよね。高潔ですけれど、高いところから言ってるわけでもなく、ざわざわしたいろんなものを吸い取って、くるんでくれる。そして自分をシンプルで、簡潔な状態にしてくれる。そういう、お守りみたいな存在なんです。
なので、これが版元切れの絶版だと聞いた時「えっ?本当にないの?」と聞き返しました。しかもそれによって古本の価格が上昇し、著作者も本意ではないような金額になってしまうのは、見るに堪えない。なんなら僕が買い取って出したいぐらいだと、本当に思っていました。
なのでこの機会に、ぜひ復刊させたい。そう強く願っています。
今、時間の奪い合いが激しい中で、長い小説にはなかなか向き合えないかもしれない。だけど詩なら、さらっと手に取って、ひとつだけ読むこともできる。また不思議なのは、二度と同じように読めないこと。以前の時の感じ方と、違った角度で入り込んでくるところがあって。小説でもありますけど、詩はそれをより分かりやすく感じます。どういうことかな?って立ち止まったり、数行読み返したり。そうしてちゃんと掴みに行って、心に刻んでいく。
詩に限らず、短歌や俳句なども含めた「詩歌」に、最近面白いものが増えていて、注目しています。小説が文学の中心のように感じられるかもしれないけど、実は近代に入ってからで、詩歌は古来から長らく人が書いてきたもの。それもあり、元来我々日本人のDNAに、すっと入ってくるところがあると思うんです。言葉の細やかなニュアンス、行間、余韻を読み取りながら解釈する。せっかく日本語が母語である僕らだからこそ、詩を読むことをおすすめしたい。
僕は東京の街場に30年間暮らしてきましたが、今年私設図書室と「喫茶 芳」を併設した京都分室「鈍考 donkou」を作り、二拠点生活を始めました。特にここは木造で、床とか柱だけじゃなく机とか椅子とかぜんぶ、杉だったりオークだったり、いろんな木を使っていて、庭には檜やソメイヨシノが見える。そんな木に囲まれた空間にいると、原始的な気持ちに還って、心が落ち着くんですよね。窓の外をぼーっと見て「あ、夾竹桃が揺れてるなぁ」なんて思いながら、ビールやワインを飲む。これが一番しあわせです。
この本は『人はかつて樹だった』というタイトル通り、身近な自然がモチーフになっています。読んでいると、風景が思い浮かぶんです。なくなっていると言いつつ、身の回りにはやっぱり自然があって、それは人が無意識も含めて、そういうものを希求してるからだと思うんです。だから都会に住んでいても、木のものを選んだり、ベランダに緑や花を植えたりする。僕はその素晴らしさを、日々実感しています。